猫の額
遅刻を許せる人間と許せない人間の差はなんだろう。
後者の私は、前者から見ればきっと心の狭い人間であるはずだ。
私との約束に遅刻をした相手が、私でない誰かに会うときは遅刻をしなかった。
ただそれだけのことが、たったそれだけのことなのに辛くてたまらない。
私は傲慢で我がままだから、自分の約束を守ってくれなかった相手を許せなくて執拗に責めてしまう。
君が遅刻さえしなければ、誰かと自分とを比べて、自分自身の存在を軽く感じることなんてなかったのに。
私だって遅刻を許せる人間になりたい。
寝坊して遅れた相手に「お腹空いたからごはん行こう」って笑えたらどんなに楽だろうか。
君からのごめんねに拗ねた顔で、仕方ないなあって言えたらきっと、自分を嫌いになることもないのに。
自分も相手も嫌になる。
もうやめたい、全部。
満たされない欲望は底抜けのバケツである
生きていれば欲が生まれるのは当然だ。
欲には食欲・性欲・睡眠欲からなる三大欲求をはじめ、生理的欲求や社会的欲求などがあげられるが、どれもある程度満たされれば普通は満足でき、日常生活に支障をきたすようなことはないだろう。
しかし時折、この欲が満たされない状態が存在する。
一般に欲求不満と呼ばれるものだ。
そして私は承認欲求に関してだけ、常に欲求不満なのである。
認められたい、必要とされたいという感情の弁が壊れている。どれだけ認められても足りないのだ、これは深刻な問題である。
求められれば応えずにはいられないし、必要とされることに快感を覚える。
この快感が私を狂わせさまざまな行動を起こさせるのだ。
側から見ればお人好しにも見える私の行動だが、根底にあるのは優しさではなく欲である。
家族、恋人、友達からの承認では足りない、全人類から認められたいという病的なまでの欲が満たされることはきっと一生涯ないのだろう。
それは底に穴の空いたバケツと同じようなもので、穴の空いたバケツはどれだけ水を汲んでも下から零れて満杯になることはない。
そして私のこの欲望も1度は満たされたように感じられても底から零れ落ちてすぐに空にしてしまう。
理解はしていてもやめられない、多少無理をしてでも欲のためならばと体が動く。
枯渇した心が満たされる日がどうか来ますようにと願って私は今日も眠りにつくのだ。
情は情でも
よくされる論争の1つ「男女の友情は成立するのか」について
結論から言えば成立はしない。しかし、これはもちろん私個人の話である。
実際にそれが成立しているケースはごまんとあるし、そこを否定するわけではない。
あくまでも私の中には存在しないという話だ。
ではなぜこんなに強く否定するのか、それは私の今までの人生で1度も成功した事例がないからだ。
友達だと思っていた人間がある日突然恋愛感情をむき出しにしてくるとか、あいつらは付き合っている、などと噂があがり気まずくなって疎遠になるとかそういった経験が多すぎるのである。
恋愛感情ならばまだいい方で、性的欲望をぶつけられた日には嘔吐ものである。
友達だと思っていた人間が実は下半身野郎だったのだ。楽しく会話をしていた時もこいつはセックスがしたいと考えていたのか。
ああ、私は人間でなく女として見られていたんだ。
唐突な死刑宣告、この瞬間に私は友達と相手への信用の2つを一気に失う。この絶望感がわかるだろうか?
友情に欲情するな。
「彼女、彼氏いるのに遊んでるとか最低」「あいつら絶対ヤってるよ!笑」こういった声を誰しも一度くらいは聞いたことがあると思う。
これを話している人間は私達の結びつきが友情かどうかなんてどうでもいいのだ。
ただそこにいたから、なんとなく言ってみただけ、なのである。
読んでいてわかる人もいたかもしれないが、私は友情に性欲(恋愛感情も含む)が介在することを極端に毛嫌っている。
二者間での関係はもちろん、第三者からそう見られるのも気持ちが悪い。
が、これに関しては何かきっかけがあったわけじゃなく生まれつきのものである。
だからこそ、周りからそう噂立てられると嫌になって遠ざけてしまうのだ。
今は男女の友情など成立しないと言っている私だが、それでもまだ純粋な幼子の時にはそこに友情は存在すると本気で思っていたこともある。
まあそんなかわいい幼少期の思考は後に崩れ去るわけだが。
ここで少し割合の話をしよう。
A子B子C男D男がいたとする。
A子とD男は男女の友情は存在しない派で
B子とC男は男女の友情は存在する派だった場合。
この4人の中で男女の友情が成立する(2人が共通認識している)のはB子とC男の1グループのみ、つまり25%の割合である。
少々極端だがそれでも4組に1組しか成り立たない友情はリスクが高すぎると思う。
難しいのは、男女の友情においてはお互いが存在すると考える人間でない場合関係が成立しないということだ。
だからこそ私はそんな危ない橋を渡ってまで友情を育みたいとも思わないし、そう思える人間にも出会っていない。
私を視野の狭い可哀想な人間と評する意見もあるが、勝手にそう思っててもらって構わない。
男女の友情を築ける素敵な感性の持ち主はこんな弱小に噛み付いていないで友達でも増やしたらいい。
長々とまとまらない話になってしまったが一旦ここで終わりにする。また何かの機会に書くかもしれない。
ベガとアルタイルの怠惰
世の中にどれだけ七夕が浸透しているのかは分からないが、大抵の日本人は笹に願いを書いた短冊を吊るし織姫と彦星の再開を祝う日であるということくらいは知っているだろう。
どの程度認知されているかなんてここでは大した問題ではないのでどうでもいいのだけど、私の疑問は「この願いは織姫と彦星が叶えてくれるのか」という点である。
そうだと仮定した場合、遊び呆けて引き剥がされたような男女が他人のどうでもいい願いなど聞き入れるだろうか?
否、私がその立場なら絶対にそんなことはしない。1年に1度の貴重な再開の時をそんなことに割いている暇はないのである。
そしてきっと彼らもそのはずだ。
だとすれば短冊の願いが叶うことはほぼ皆無に等しい。
もしも聞き入れてくれるような寛大な心の持ち主だったとしても、君たちは人の願いを叶える前にまず仕事をした方がいい、そうすれば毎日でも会えるだろうに。
美談のように語られる2人の愛は自身の怠惰によって崩壊するのだ。
なんと哀れな、まあ自業自得としか言いようがないのだが。
ここまで七夕について語ったものの正直2人の愛だの恋だのの話はどうでもよくて、私はただ短冊の願いを叶えて欲しいのである。
つまり何が言いたいかというと五百億円が手に入りますように。